正岡子規の書簡を発見 雑誌「文学」で発表

正岡子規(1867―1902)が、群馬県の俳人にあてた書簡が見つかり、復本一郎神奈川大名誉教授が25日発売の雑誌文学(岩波書店)11・12月号で詳細を発表した。

Photo_3書簡は、句稿の添削・批評を依頼する手紙に同封されていた為替券を返送することや、新聞日本への投稿を勧める内容。
復本名誉教授は、「内容、丁寧な筆跡など全体像として高潔な子規の人間性がうかがえる」と話している。

復本氏によると「昨年夏、大患後」の記述と「八月十五日」の日付の記載から、書いたのは明治29年8月15日。
宛先の「倉田兄」は、1908年8月の俳人名簿や俳誌ほとゝぎすなどから群馬県前橋市の倉田萩郎とみられるという。(愛媛新聞)参照

| | コメント (0) | トラックバック (0)

佐藤春夫の父・豊太郎宛 夏目漱石の未発表書簡を発見

新宮市立佐藤春夫記念館(辻本雄一館長)は11日、夏目漱石が、春夫の父豊太郎にあてた未発表の書簡が見つかったと発表した。豊太郎からの贈り物に対してお礼し、揮毫依頼に応えた内容で、辻本館長は、「文化人だった豊太郎と文豪との交流、さらには漱石と熊野・新宮とのつながりが窺える」としている。

1和紙に墨で書かれ、縦17cm、長さ76cm。
別の書簡とともに巻物風に軸装してあった。

文京区在住の春夫の親族が発見し、記念館に今年7月寄託した。差し出しは大正5年6月27日で、封筒の表に「紀伊新宮 佐藤豊太郎様」、裏には日付と住所、夏目金之助と記している。

Photo_3 豊太郎が贈った東牟婁郡誌、熊野速玉大社小史、熊野牛王10枚に対し、漱石は、「いづれも到着有難頂戴致候」とお礼を述べ、クジラの牙1個も拝受したとある。さらに、豊太郎の依頼に応え、扇子3本に悪筆ながら揮毫したとの記述も。

佐藤家は那智勝浦町で代々の医家で、豊太郎は新宮市で開業。俳号は鏡水で、谷崎潤一郎とも交流があった。春夫はその長男。

Photo_2記念館は、「書簡が出された大正5年は漱石が12月に亡くなる年。春夫が雑誌などに作品を発表し始めるころでもある。漱石は春夫の存在を知っていたのではないか」とみる。
12月1日に開幕する開館20周年企画展で、寄託・寄贈された資料とともに展示する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

井上靖の行軍日記を発見 中国出征から送還まで半年

天平の甍などで知られる作家井上靖(1907~91年)が37年から38年にかけて中国に出征したときの日記が、都内の遺族宅で見つかった。戦争に直面した作家の率直な心情がうかがえる貴重な資料だ。

Photo_3日記は、井上が当時勤務していた大阪毎日新聞の社員手帳に鉛筆で書かれていた。召集令状が届いた37年8月25日から、補給担当の特務兵として中国河北省に送られ戦地を行軍、脚気を患い帰国した後の翌年3月7日まで続く。
昨年死去した妻ふみさんが保管していた遺品に残されていた。

「砲撃の跡物凄し、全部落の家屋殆ど全半壊」などの戦場の描写や「神様!一日も早く帰して下さい」といった切実な心境がつづられている。
また「あゝふみよ!伊豆の両親よ、幾世よ!」「この先が危ぶまれ、ふみ幾世のことを思ひ、悲痛な気持になる」と妻や娘への思いを募らせていたことも分かる。

Photo_4井上は従軍の体験をもとにした作品はほとんど書いていない。
日本大文理学部の曽根博義教授(日本近代文学)は、「率直な心情が書かれており、一人の弱い兵士だった井上氏の姿が浮かび上がってくる。井上文学のルーツをたどる上で貴重な資料」と話している。

日記は11月7日発売の文芸誌新潮12月号に掲載される。【共同・他】参照

      天平の甍再び 鑑真の唐招提寺で金堂落慶法要

| | コメント (0) | トラックバック (0)

天平の甍再び 鑑真の唐招提寺で金堂落慶法要

奈良市の唐招提寺で、約10年にわたった金堂(国宝)の解体修理平成の大修理が完工し1日午前、落慶法要が始まった。秋晴れのもと開扉開眼の儀が営まれ、約1000人が参列。装いを新たにした天平の甍いらかを仰ぎ見た。

Photo_2午前9時半、僧侶らの行列が金堂に歩み寄ると金堂正面の扉が静かに開き、堂内に鎮座する本尊の盧舎那仏坐像が姿をのぞかせた。

松浦俊海長老が本尊に向かって大きな筆を振ったのを合図に、屋根両端に新調した鴟尾しびの覆いが取り払われ、色とりどりの散華が参列者の頭上に舞った。

金堂が完成したのは8世紀末。大規模な解体修理は明治時代以来およそ100年ぶりで、00年から本体工事を進めていた。本尊や千手観音立像など、堂内の国宝の仏像9体も並行して修理した。(日経・他)

           いにしえに迷う⑤奈良に遊ぶ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

長沢芦雪&円山応挙、鮮やかに再現 和歌山・無量寺

和歌山県串本町の無量寺は28日、江戸時代の画家長沢芦雪虎図円山応挙波上群仙図など、55面の障壁画のデジタル複製画を報道陣に公開。最新の技術を駆使してふすまから飛び出しそうな虎などを鮮やかに再現した。

Photo_3複製したのは、二人が描き、国の重要文化財に指定されている襖絵や壁画で、原画は無量寺が保管している。複製画は本堂の5室の襖や壁に、制作当時のままの状態で配置。

同寺は、「応挙芦雪が意図した絵画空間を体感してほしい」としている。

大日本印刷会社が約4億3千万画素のデジタルスキャナーでデータを取り込み、1年近くかけて制作した。一般公開は12月から。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

光源氏、軽薄な女だな 写本・大沢本に新記述見つかる

源氏物語の写本の一つで、昨年約80年ぶりに全54帖の存在が確認された大沢本に、標準的な写本青表紙本の本文と大きく異なる展開の内容が含まれていることが、伊井春樹大阪大名誉教授の研究で30日迄に分かった。

Photo_2異なる部分は約2千字分。伊井さんは「これほど大幅に違う本文が見つかったのは初めて。展開そのものが異なっていて興味深い」と話している。
藤原定家が編纂した青表紙本の本文と大きく違う部分が見つかったのは、光源氏の死後の物語宇治十帖の中の蜻蛉巻

薫と匂宮という2人の男性との三角関係に悩んでいたヒロインの浮舟が宇治で行方不明になってしまった後のくだりだ。

青表紙本では、匂宮に命じられた従者の時方が夕方都を出て、雨が上がったころ宇治に着く。やがて時方が帰った後に、浮舟の母君が葬儀を行うという展開。

だが大沢本では、先に雨の中で母君が宇治に着き、葬儀を計画。小降りになったころに時方が着く。
伊井さんは「大沢本の方がむしろ自然。この写本を誰が書いたのかも気になる」。

大沢本はこのほか、前半の花宴はなのえんのの巻末にも源氏の心境をつづった部分があるなど、標準本と違う部分が数多く見つかっている。

        宇治十帖の続編みつかる 巣守帖写本の一部か 

        更級日記②源氏物語へのあこがれ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

落語家・三遊亭円楽さん逝く、笑点で司会 星の王子様

1落語家として一世を風靡し、人気テレビ番組笑点の司会で親しまれた三遊亭円楽(吉河寛海ひろうみ)さんが29日午前8時15分、肺癌のため死去した。享年76。

Photo_6浅草の寺に生まれ、1955年、六代目三遊亭円生さんに入門。62年真打ちに昇進し、五代目円楽を襲名した。
志ん朝談志、円鏡(現円蔵)と落語界の四天王と呼ばれ、朗々たる太くまろやかな声で語る人情噺は迫力満点。

名工浜野矩随のりゆきの涙を流しながらの熱演で強い印象を残した。

全国区の人気者となったのは66年に始まった日本テレビ系笑点の大喜利メンバーに参加してから。星の王子様を自称して人気を集めた。

77年、師匠の円生の言葉に従い、笑点を含む10本のレギュラー番組すべてを降板し、77年にやぶ入りで芸術祭優秀賞。その後、83年に司会者として笑点に復帰。長年、茶の間の人気を保った。(NIKKEI・他)参照 《合掌

   桂歌丸さん、本当の友を亡くした マスコミ各社にコメント

   三遊亭円楽さん死去、笑点の日本テレビが追悼特番

| | コメント (2) | トラックバック (16)

桂米朝に文化勲章 文化功労者に元横綱大鵬幸喜ら

今年の文化勲章の受章者と文化功労者が発表された。文化勲章には落語家の桂米朝や歌舞伎役者の坂田藤十郎ら5人、文化功労者には元横綱の大鵬幸喜ら合あわせて15人が選ばれた。(敬省略)

Photo_6 「ほかに何もできませんので、これ(落語)一筋でそれをやるよりしょうがないので、今日までやらせてもらいました。えらいことですな、これは……」(桂米朝
軽妙洒脱な語り口でファンを魅了してきた米。戦後、衰退の危機にあった落語界を盛り立てた。古典落語で受章するのは初めて。

「私は歌舞伎を奪ったら何も出来ない不器用な男ですから」(坂田藤十郎
曾根崎心中の復活上演など、歌舞伎界の発展に大きな功績を残した藤十郎
カーボンナノチューブを発見した飯島澄男ら5人が選ばれた。

文化功労者には第48代横綱大鵬幸喜、小説家宮尾登美子ら15人が選ばれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

よみがえる邪馬台国~吉野ケ里と倭人伝の世界 11.23迄

吉野ケ里遺跡などの出土品を多数集めた特別企画展よみがえる邪馬台国~吉野ケ里と倭人伝の世界が24日、吉野ケ里歴史公園で始まり、弥生時代後期(1世紀頃)の男性のものとみられる国内最古の毛髪が公開された。

Photo_2毛髪は1986年度の調査で、吉野ケ里の甕棺墓内から出土した弥生人の頭骨に付着した状態で見つかった。
企画展を監修した佐賀女子短大の高島忠平学長(考古学)によると、耳の下から上の方へ巻いて束ねた結髪みずらの部分。

もろくて崩れやすいため、県教育委員会で保存していたが、ようやく展示環境が整ったという。

企画展では、貝輪を装着した高貴な女性の骨(佐賀県・花浦遺跡)など約300点も公開。高島氏は「吉野ケ里は邪馬台国の有力な候補地の一つ。企画展を通じて多くの人に関心を深めてもらいたい」と話している。〔共同〕

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最古の大和絵・国宝「日想観」図が復元公開 平等院

平等院鳳凰堂中堂(京都府宇治市)の扉に描かれた国内最古の大和絵で国宝の日想観図(1053年制作)に、西を向いて拝む女性の姿が描かれていたことが分かり、平等院が17日、想定復元図を公開した。

Photo_5日想観は、極楽浄土に向かうための瞑想法の一つ。扉絵は表面が剥落し、拝む人物の姿を肉眼では確認できなかった。約千年の時を超え、主人公が鮮やかによみがえった。

日本画家で金沢美術工芸大の荒木恵信准教授らによると、赤外線調査で、右扉に西向きに座って拝む人物の下半身部分を確認。十二単のようなすそが長い服装であることから女性と断定し、学術的考察を加えて全身像を想定復元した。

女性は瞑想についての記述がある経典観無量寿経に登場するインドの王妃、韋提希いだいけを模した可能性もあるという。さらに蛍光エックス線調査で、左扉には太陽が水平線に沈む光景が描かれていることも判明。

中国などの日想観図では人物が山に沈む夕日に向かって拝んでいるが、平等院の図では海の方を向いていた。海と空は、ほかの扉絵には使われていない紫根と呼ばれる染料を用いて赤紫色にしていた可能性が高いという。

日想観図は、藤原頼通が鳳凰堂を創建した当初に制作された。堂内の扉絵に囲まれ、頼通が瞑想していたと考えられている。

荒木准教授は17日、平等院で、「想定復元図によって、日想観図に込められた平安人の思いを理解しやすくなったと思う」と話した。

日想観図は12月18日迄、平等院ミュージアム鳳翔館で一般公開される

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧