亡命中の足利義昭からの御内書を発見・公開 鞆の浦の資料館
室町幕府最後の15代将軍、足利義昭が織田信長に京都を追放されて亡命していた鞆の浦(福山市)から、
伊勢国(三重県)の武将、北畠具房ともふさに宛てたとみられる帰京への助力を求める手紙が見つかった。
『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』で公開されている。
室町幕府の将軍が私的な書状の形をとって差し出す命令書「御内ごない書」で、福山市出身の歴史資料収集家、守屋寿ひさしさんが今月、市内の『県立歴史博物館』に寄託した。
芸州(毛利家)と相談して、「早速帰洛候様馳走頼入候/すみやかに都に帰れるよう助力してほしい」などと記され、
末尾に9月9日の日付と義昭の花押かおう(署名代わりの記号)と「北畠中将殿」の宛名がある。
『広島県立歴史博物館』は、
毛利家に配慮した内容や花押の描き方などから、京都を逃れた義昭が紀伊国(和歌山県)を経て鞆の浦に入った天正4(1576)年の手紙と推定した。
この年は、7月に大阪湾で起きた『第1次木津川口海戦』で毛利水軍が織田水軍を破って信長と戦争中の石山本願寺(大阪)への補給を成功させ、
信長の譲歩を引き出して帰京できる可能性が高まったと義昭に思わせたとみられる。
一方で、11月には信長の命で、前年に信長の次男、信雄のぶかつに北畠家当主を譲っていた具房が幽閉され、
信長に反発する動きを見せていた具房の父、具教とものりが殺害されたとされている。
こうした流れから福山市の『県立歴史博物館』は、
この手紙が、信長による北畠父子の粛正に何らかの役割を果たした可能性もあるとみており、信長が天下統一を目指す途上のエピソードを色づける貴重な資料としている。
公開は8月19日まで。
広島県立歴史博物館提供
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