〈浅草の灯よ:1〉ビートたけし「型破り」の笑い
「遊びに行く所はあったし、ふらっと浅草に行ったんですよ」。
72年夏、六区のストリップ劇場「フランス座」のエレベーター係が、ビートたけし(59)の浅草生活の始まりだった。足立区育ちでなじみの町。
「浅草中の劇場に入れる従業員パスもほしかった」
まだ芸人になろうとは思ってもいない。デン助劇団が解散の前年。にぎわいは消えたが、十数軒の映画館が残り、レトロな雰囲気が漂っていた。
そこで、座長の深見千三郎と出会う。「お笑いにあこがれて入ったと勘違いされ、『そろそろ芝居やれって』」。痴漢のコントが初舞台だった。
深見は、踊れて、歌えて、左指がないのにギターが弾け、物まねもできる。「器用さではほとんど勝てなかった」とたけしが語る深見の芸には投げ銭が飛んだほど。
「笑われるのではなく、笑わせるんだぞ」と深見はよく話した。
見かけではなく芸が大切といいたかったのだろう。73年にフランス座の照明係になった作家の井上雅義(58)は、たけしが深見をいびる「乞食のコント」を覚えている。いじめ方が真に迫っていて、客が怒り出した。
ショーがはねると、たけしは井上と連れだって居酒屋に行った。「数少ないファンがいて、『一杯、飲ましてやって』と店のおやじに言ってくれる。芸のあるホームレスみたいだった」 フランス座を離れ、近くの松竹演芸場に移った後、たけしはツービートとしてブレークした。
世間の常識の中にある、まやかしを過激な言葉で暴いた。
「インチキくさい、『暴力追放の町、町をきれいにしましょう』なんていうのをちゃかしたんですよ」「とんでもないコンビが現れた」という評判がたった。楽屋の芸人も見に来て、「おもしれえな」とつぶやいた。
週刊誌の記者になっていた井上は、「新しい笑いが出てきた」と感じ、「クソミソ、ボロクソ、ナマイキ、メチャクチャなどなど、世の悪評という悪評を逆手にとって、暴れまくり」と78年に書いた。
06年11月10日、六区の大勝館でたけしが「おかあさん」と呼ぶ、会長、斎藤智恵子(80)の誕生パーティーに、たけしの姿があった。03年公開の映画「座頭市」は斎藤の企画。
「『頼み事があるけど、断っちゃだめ』って料亭に呼ばれた」 金髪、赤い仕込みづえ。深見ゆずりのタップ。型破りの映画が生まれた。
たけしは思う。
「浅草の芸人は、売れなくて死んでいってもしょうがないと思っている。金がなくてもどうにかなる。甘えられて芸人の墓場みたいな所」
浅草の大地は芸人の喜びと悲しみを吸ってきた。芸人の心の古里をつづる。(敬称略)asahi.com より引用
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